ブルースカイ





例え傍には居なくても。
心はいつも、あなたの元に。
最期まで一緒に、連れて逝って下さい。
死ぬ時は、一緒です。
あなたと共に、この身を朽ちらせます。









無涯さんに、赤紙が来た。

「どうして? どうして、無涯さんが?」

思わずお役人さんに詰め寄れば、

「お国のために働くのは、当然のことだろう」

と、大した理由も説明されず、冷たくあしらわれる。
見なくたってわかる。
きっと、空軍からの召集だ。
僕は、荷物も持たず、その葉書だけを握り締めて、無涯さんの元へと向かった。
この町の外れにある、小さな診療所に、無涯さんは居る。

「……無涯さんっ」

勢い良くドアを開ければ、驚いた無涯さんが苦笑する。

「葵、そんなに焦って、どうしたんだ? 無理はするな、と言っているだろう」

「あの、コレ……」

握り締めて、クシャクシャになってしまったそれを、無涯さんは何とも言えない表情で、見つめた。

「そうか、来たのか」
「葵くん、調子はどうだい?」

かかりつけのお医者様が、病室へ入ってくる。
僕たちが小さい頃からお世話になっているお医者様で、言わば、僕たち二人の保護者代わりのような人だ。

「えぇ、最近は発作もないですし、まずまずです。それより……」
「どうしたのかね?」
「先生、ついにオレにも招集が来たようだ」
「何で……君が」

先生はとても驚いていたけれど。
葉書に印刷された『空軍』という文字を見ると、納得したような諦めたような、悲しい表情に変わった。

「大方、お国のために働けない者は、役に立てる所で死ねということだろう」

無涯さんは、そう言って鼻で笑うと、もう一度、葉書を見つめる。
言葉に、詰まる。
涙が零れる。
僕が泣いて、どうするんだ。
だけど、一旦流れ始めた涙は、止まることなく溢れ続ける。
無涯さんは、そんな僕を、ベッドに座ったまま、抱き締めてくれた。
無涯さんは昔、飛行機の操縦士になるための学校に、国から援助を受けながら通っていた。
無涯さんの成績は、同期の人たちの中でも常にトップを走り続け、将来を約束されていた。
……けれど、詳しいことは良くわからないけど、適性検査の結果、内臓に慢性的な疾患が発見され、無涯さんの将来は、一瞬のうちに白紙になってしまった。
しばらくして、無涯さんの身体に色々な症状が表れ始め、昔から身体の弱い僕のかかりつけだったはずの病院へ、無涯さんが入ることになってしまった。
それから約一年が経った。
既に始まっていた戦争は激化の一途を辿った。
人手不足のせいか僕たちのように入隊検査で引っかかり、今まで兵役を課せられていなかった人たちにも、召集がくるようになった。
僕にもきっとそろそろだ、と思っていた矢先に、無涯さんに、来てしまった。
一年前から入退院を繰り返している無涯さんに。
操縦士という夢を捨てざるを得なかった無涯さんに。
よりにもよって、空軍からの召集が。
そっと、先生が部屋を出て行くのがわかった。
僕たちは、さっきよりも更に強い力で抱き締め合い、ゆっくりと、唇を重ねた。
それはとても、とてもとても、今までの中でも一番、悲しい悲しい口付けだった。

「召集令状、取りにいかないとな」
「……そう、ですね」

声が上手く発せられない。
言いたいことは沢山あるはずなのに、何にも言葉が出て来ない。
『神風特攻隊』そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
無涯さんの言葉の意味や、悲しそうな先生の顔や、今更空軍から召集が来たことを考えれば、そこに行き着くのも当然のことだった。

「葵」
「……はい」
「退院、させてもらおう」
「…………はい」

それは無涯さんの、死への覚悟だったのかもしれない。

「……先生」

点滴を引きずり、二人で診察室へと向かう。

「退院させて欲しいんだろう?」
「何故、それを」
「何年、君たちを見ていると思っているんだ。……来なさい」

診察室へ入ると、先生は無涯さんの点滴をゆっくりと抜き取り、大量の薬を渡してくれた。

「朝晩、食事のあとに、飲みなさい」
「ありがとうございます」

僕たちは、声を合わせ、深々と頭を下げると、診察室を後にした。
無涯さんの荷物を鞄に詰め、病院を出る。
通い慣れた病院への道を、久しぶりに二人で歩くのは何だか変な感じがした。
いつもと違う帰り道に、これから何か良いことでも起こりそうだけど。
錯覚に過ぎないことは、じっくり考えてみなくたってわかることだった。

「葵……」
「……はい」
「オレは…………いや、何でもない」
「…………」

沈黙が、苦しい。
こつん、と手の甲が触れたのをきっかけにして、僕たちは手を繋いだ。
帰り道が、やけに長く感じた。
こんなに長くて悲しい帰り道は、無涯さんが初めて入院したとき以来だった。

「葵……」

無涯さんが、立ち止まる。
僕と繋いでいる手が、ぶるぶると震え出す。

「……無涯さん」
「死を恐れることは、愚かなことだと思うか?」

前を向いたまま、僕にそう訊ねる無涯さんの瞳からは、涙が零れ始めていた。

「死ぬことは……とてもとても怖いです。でも、誰だって…怖いはずなのに。皆、気付かない。気付かずに、命を捨てさせようとする」

小さい頃から身体が弱かった僕にとって、死への恐怖は、昔からとても身近なものだった。
咳が止まらない時。
熱で意識が朦朧としている時。
夜中に急にひきつけを起こしてしまった時。
僕の背中は常に、死と隣り合わせだった。

「オレは、愚かではないよな? オレは……」

言葉に詰まってしまった無涯さんの大きな手を、僕は強く強く握り締める。

それは、適性検査に引っかかってしまった時も、身体に色々な症状が表れ始めた時も、決して弱音を吐くことのなかった無涯さんの、初めての弱音だった。




翌日、無涯さんが取りに行った召集令状には、ピンク色の紙にはとても似つかわしくないほど、冷たい文字が並んでいた。
無涯さんの出征は、一週間後。
永遠の別れを告げるには、早すぎる旅立ち。
名前も知らない地名は、遠く遠く感じて。
僕は、その紙を引き裂きたい衝動に駆られたけれど。

「……葵、やめておけ」

僕の表情の変化に気付いたのか、無涯さんが僕の手を、優しく掴んだ。

「いいか? 誰かが来ても、決して悲しそうな素振りは見せるんじゃないぞ」

僕は、その言葉に小さく頷くことしかできなかった。






出征。
この小さな町に残った人々は、何が嬉しいのか、それ以前に何処で知ったのか。
その二文字の言葉に誘われるように、次々と僕らの住む小さな家に押しかけて来た。

「ついに来て、良かったわね」

なんてことを言いながら、無涯さんの前で平然として笑う。
僕はそれに耐えられなくて。
だけど無涯さん一人に相手させるわけにも行かずに、無涯さんの隣で、へらへらと笑っていた。
笑うしかできないことが歯痒かった。
それでも何度も零れ落ちそうになる涙を堪えて、どうにか、笑った。
そんな自分が、堪らなく嫌だった。

「やっと終わったな」

全員が帰ったあと、無涯さんは僕に笑いかけたけれど、僕はどうにも上手く笑い返せない。
情けない。
しっかりしなきゃいけないのは僕なのに。
無涯さんが旅立つまで、僕が支えなきゃいけないのに。
何をしてるんだろう。
誰よりつらいのは、無涯さんだ。
あと、一週間。






無涯さんに赤紙が来てから二日目。
今日は、出征するための準備をした。
少ない着替えと食料。
ロクに働けていない僕らには、それが精一杯だった。
少ない配給の中からどうにか作り出したそれは、哀しいほどに軽かった。
無涯さんは、食料は要らない、と言ったけれど、無理矢理に僕が押し込んだ。
どうせこの家に残っていたって、大して意味もない物だ。
そうして夜が来て、僕らは、無涯さんが入院する前そうしていたように、手をしっかりと繋いで眠った。
未だ身体を重ねたことのない僕らが、今更同じ夜を過ごすのは、何だかとても不毛な気がしたけれど。
それでも繋いだ手の温かさが、嬉しくて堪らない。
同じ布団の中。
同じ夜を過ごす僕ら。
きっと考えてることもおんなじなのに。
どうしたって繋がらない、繋がれない。
それでも無涯さんが行ってしまうまでには、一度でいい。
一つになりたいと思った。
ただただ、一つに。
それでももう、あと六日しかないのだけれど。
あと、六日。

今日は、何もしなかった。
ただただラジオを流し、二人で壁にもたれて聴いていた。
時々無涯さんは、眠そうに欠伸をして、それでも決して眠ることはしなかった。
無涯さんに赤紙が来てから、僕らの会話は目に見えて少なくなった。
口を開けば、きっと哀しい言葉しか出て来ない。
お国を責める言葉。
無涯さんの行く末。
僕の生活。
僕らの未来は真っ暗で。
それでいて希望の欠片すらも見当たらなかった。

「葵、そろそろ飯にしないか?」
「そうですね……」

必要最低限の言葉しか交わさない僕らは、大切なことに目を背けて。
今を生きるだけで精一杯で。
それでも無涯さんの顔を見るだけで泣きそうになってしまう僕に、いったいどんな言葉が紡げるだろう。
わからない。
わからなくて、僕は口をつぐんでしまう。
だけど、胸に宿る小さな決意は、決してなくなることはなかった。
ねぇ僕ら、小さな頃からずっと一緒で。
それなら終わるときも一緒じゃない? だなんて。
口には出せないけれど。
あと、五日。






「葵、話がある。」

今日は、起き抜けで無涯さんにそう告げられた。
何となく想像のつくその話を、僕は避けたかったけれど。
避けて、今日もただ、意味もなく一緒にラジオを聴きたかったけれど。
それでも避けるわけにはいかずに、小さく頷いた。
最早、軍歌しか流れてこないラジオは、永久にその音を奏でることは、きっともう、ない。

「どうしたんですか?」
「あ、いや。大したことではないのだが……」

内容がわかりきっている会話を、そうやって始めるのは何だか滑稽だ。
どうにか後回し、後回しにしたくてそれでも、とてもとても大切な話だから。
僕にとっては意味のない話なんだけど、無涯さんが僕を大切に思ってくれる証を、いい加減な気持ちで聞くことなんてできない。

「色々言いたいこともあるだろうが、黙って聞いて欲しい」
「……はい」

僕が小さく答えると、無涯さんはゆっくりと話し始めた。
その話は、思っていた通り耳を塞ぎたくなるほど哀しすぎた。
自分がこの世から居なくなってしまってからのことを話さなければならない無涯さんも、とてもとても哀しそうな顔をしていた。

「いいか? いざという時は先生を頼るんだぞ?」

言いたいことは、数え切れないほど沢山あった。
けれど、その全てはどうしたって言葉にはできなかった。
真剣に、僕の身を案ずる無涯さんに。
一緒に逝きたい、だなんて言葉、言える筈がなかった。
無情にも近づいてくる、その日が怖くて堪らない。
離れ離れだなんて、嫌。
もう、逢えなくなるだなんて、嫌。
それより無涯さんが居なくなってしまうのは、もっともっと、嫌。
どうかどうか、無涯さんが笑って死ねますように。
僕はもう、笑えなくなったっていいから。
僕の未来なんて、どうなったっていい。
ただ、それだけ願う。
僕は、無涯さんの笑顔が大好きだから。
あと、四日。






ついにあと三日となってしまった、僕たちの小さくささやかな暮らし。
今日は、僕ら二人の思い出の場所へと行った。
僕ら二人が出逢った小さな施設は、変わり果てた姿で其処にあった。
真っ白だったはずの壁は灰色に染まっていた。
窓は割れ、ところどころ欠けてしまったその建物は、あまりにも痛々しい姿でただ、佇んでいた。

「見ないほうが、良かったのかもしれないな」

無涯さんが小さく呟く。

「そんなこと……ないですよ」

僕も小さく答えれば、無涯さんは真剣な瞳をして、僕を見つめた。

「どうして、そんなことが言える? こんな姿を見たって、哀しくなるだけではないのか?」
「確かに、哀しい……です。けど、だけど。こんな姿になっても、僕にはあの日と変わらない姿に見えてしまう。
 此処は、無涯さんと出逢った大切な場所だから。記憶が、はっきり覚えてる」
「オレには、見えない」

無涯さんが、悲しそうに言い放つ。
僕は、無涯さんの手を取って、小さく囁いた。

「目を閉じて、思い出して下さい」

きゅっ、と強く強く無涯さんの手を握る。

「僕たちの、幸せな思い出を」

僕もゆっくりと、目を閉じた。
浮かんでくる、沢山の思い出。
沢山の笑顔。
小さな子どもが、楽しそうに庭を駆け回っている。
無涯さんは、その中心に。
僕は、建物の影に。
僕の身体が弱いせいで、一緒に遊ぶことはあまりできなかったけれど、それでも無涯さんを見ているだけで僕は、とてもとても幸せだった。
無涯さんはいつも僕を、気遣ってくれた。
みんなの輪の中に入れない僕の傍に居てくれた。
ずっとずっと昔から、僕たちは一緒だった。
いつも一番近くに居てくれた。
僕の、何よりも一番大切なひと。
僕の、世界で一番大好きなひと。

「見えましたか……?」
「あぁ、笑っているな。とても、幸せそうだ」
「でしょ?」

繋いだ手に、力がこもるのがわかった。

「今も、幸せですよ。無涯さんと……居られるから」

無涯さんはふっ、と僕を見て、優しく微笑んで。

「オレもだ」

なんて。
幸せな言葉をくれる。
僕らは、その淋しくも愛おしい風景をしっかり目に焼き付けたあと、手を繋いだまま、ゆっくりと帰った。
汗ばんだ手が、無涯さんを求めてる。
真っ赤に染まった空が、僕らを照らし出す。
赤すぎて、胸が苦しくて、僕らは更に繋いだ手を強く強く握った。
家に着いたら、もう何も言えなかった。
言葉なんて、何の意味もなさなかった。
貪るように口付けを交わして、探るように指先を絡めた。
触れた肌が、どんどん、熱くなってゆく。

「むが……」

呼ぼうとした名前は、再び訪れた無涯さんの唇によって遮られた。
何も、要らなかった。
承諾も了承も、何もかも。
確認さえも必要ない。
そんなことは、確かめてみなくたってわかった。
触れ合う熱い身体だけが、真実を示した。
ひとつになりたい。
今すぐに。
ただ、それだけ。
今、僕らにそれ以外の言葉は要らない。
背中に、ゆっくりと腕を回して、互いの唇を食べてしまうように、吸い合った。
食べられてるみたいで、食べてるみたいで。
どうせなら、このまま無涯さんの一部になってしまえればいいとも思った。
そうしたら、一緒に行ける。
一緒に、逝けるから。
舌を絡めて、きゅっと強く、無涯さんの背中を抱き締めた。
密着する下半身が、有り得ないくらいに熱を持つ。

「むが……さん。あつ、い」
「あぁ」

僕に触れる無涯さんの手は、泣いてしまいたくなるくらい、とてもとても優しくて。
優しすぎて、堪らなくて。
それがまた、快感に変わってもう何もかもわかんなくなるくらいで。

「……すき」
「わかっている」
「すき……です」
「あぁ」
「好きなんです」

ただ、だけどその言葉をうわ言のように繰り返した。
無涯さんは、僕の足を掴むと、ゆっくり、とてもゆっくり。
もどかしすぎるほどゆっくりと、僕の中に侵入した。

「大丈夫か?」
「なん、とか」
「痛かったらすぐに言うんだぞ?」
「大丈夫、です」

痛くないワケ、ない。

「あ、痛……ああぁぁ、や、あぁ」
「葵? 大丈夫か?」

律動を始めていた、無涯さんの腰が止まる。

「大丈夫、です。だから、やめないで……」

心も、身体も。
僕をかたどる全てが痛いけれど。
だけど、無涯さんを受け止めたい。
僕の全部で受け止めたい。
一緒に行けない分、無涯さんのカタチを僕に刻み付けて欲しいんだ。
痛みでも快感でも、愛しさでも悲しみでも。
何でもいい。
無涯さんから与えられた何かを、僕の中にとどめておきたいだけ。

「あ、ああぁぁっん。無涯さんっ……むが、いさぁ、っん」
「葵……」

ふっ、と意識が遠のくのと同時に、無涯さんの精液が、僕の中に注ぎ込まれるのがわかった。
それを確認すると僕は、意識を失った。
最後に見えた無涯さんの顔は、痛くなるくらい優しくて。
僕はとても嬉しかったんだ。



「目が覚めたか」
「無涯、さん」
「身体は、大丈夫か?」
「はい」

無涯さんを見た途端、夕方のことを思い出して、顔が熱くなる。
その顔を見られないように、いつの間にか掛けてくれていたらしい布団を、すっぽり被って、小さく返事をした。

「何で隠れるんだ」
「何でっ……そんなに平然としてるんですかっ」
「葵こそ、何でそんなに照れているんだ」
「だってあんな……」

思い出してまた、恥ずかしくなる。

「良かった」
「えぇ!?」
「あ、いや。変な意味ではないぞ? やっと、葵に触れた」
「僕、もです」
「あぁ。本当に、良かった。では、飯にするか。今日は、オレの特製野菜炒めだ」
「やった!」

このまま、時間が止まればいい。
もう、時なんか過ぎなくたっていい。
明日が来なくてもいい。
夜が明けなくてもいい。
朝が来たって、僕らに希望はないんだから。
僕らはまた夜も、飽きるほどに繋がりあった。
だけど、決して飽きることはなかった。
一生分には、これっぽっちも、足らない。
あと、三日。








夜が明けて、やっと僕らは正気に戻った。
身体中がキシキシと痛んで、繋がっていた部分が擦り切れたように痛い。

「今日は、動けそうにないな」
「そう、ですね」

僕らは、自分たちに呆れながらも、しっかりと手を繋いだ。
唇を軽く重ねて、眠りについた。
遅すぎた睡眠は、簡単に僕を眠りに誘って。
キスの余韻もないまま、僕は眠っていた。
だから僕は、そのあと無涯さんが一人で泣いていたことなんて、知らない。
泣きながら、僕の名前を呼んでくれてたことなんて、知らない。
例え、ふと目が覚めたとき、隣に眠る無涯さんの頬に涙の筋がくっきりついているのを見つけてしまっても。
僕は、何も知らない。
一緒には泣かない。
これからは最後まで、笑うんだ。
せめて、無涯さんの前でだけは。
僕の笑顔を覚えていてくれるように。
僕が無涯さんの笑顔を、はっきりと覚えているように。
あと、二日。










しっかりと繋いだはずの手は、朝になったらほどけていた。
無性に悲しくなってしまって、涙が出そうだったけれど、どうにか。
必死に堪えて、隣で眠る無涯さんの髪をすうっと触る。
この感触とも、この幸せとも、こんな日常とも。
大好きな無涯さんとも。
明日で、おわかれだ。
ぽたり、と無涯さんの頬に落ちてしまった涙を慌てて拭う。
そのせいで起きてしまったらしい無涯さんが、僕の手をゆっくりと掴んだ。
そして、引き寄せられるように、唇を重ねる。
あぁ、残された時間はあと、たったの一日。
そんな短い時間で、いったい僕らに何ができるというのだろう。

「お前は、絶対に来るんじゃないぞ」
「……え?」

小さく聞こえた言葉に、聞こえないふりをした。

「いや、何でもない」

無涯さんもきっと、気付いたんだろうけど、そのまま僕に合わせてくれた。
例えば、生きることが存在の証だというのならば、僕はそんな物は要らない。
生きられなくてもいい。
証も、要らない。
何も要らない。
だって、欲しいものはただ一つ。
ずっとずっと、ただ、一つ。
僕に、無涯さんとの未来をください。

「無涯さん」
「どうしたんだ」
「無涯、さん」
「葵?」

無涯さんの袖を小さく引っ張って、何度も何度も名前を呼ぶ。
こうやって一緒に居られるのも明日で最後かと思うと、もう何をすればいいのかわからない。
どう振舞えばいいのかもわからない。
それでも泣かないように、そればっかりを胸に言い聞かす。

「無涯さ……ん」

無涯さんの大きな腕が、僕を優しく包み込む。
ぎゅうっと抱き締められて痛いけど、痛くない。
無涯さんの涙が僕の服に染み込んで、僕の肩を濡らしてゆく。
温かくて、哀しすぎる温度。
ふるふると震える無涯さんの両手が、どうしようもなく涙を誘うけれど。

「無涯さん」

僕は、無涯さんの背中をぎゅうっと握り締めて、耐えた。
無涯さんの胸を、涙で濡らしちゃいけない。
そんな余計なもの、無涯さんには必要ない。
僕はどうにか笑って顔を上げようと足掻くけど、どうしたってそんな表情、作れるはずがなかった。
震える顔で作り上げたのはいびつな笑顔。
こんなじゃ、駄目だ。
わかっているのに、顔はひきつるばかりだ。

「葵」
「は……はい」
「歪んだような笑顔なんて、無理して見せなくてもいいんだぞ?」
「え……?」
「どんなお前でもいい。受け止めてやる。オレに遠慮などする必要はない」

堪えていた涙が、惜を切ったように溢れ出した。

「無涯さん、好き」
「わかっている」
「行かないで」
「あぁ」
「僕の、傍に居て」
「当たり前だろう」
「はなれ、たくない」
「ずっと、一緒だ」
「本当、ですか?」
「あぁ。オレはいつも、お前の傍にいる」

ありったけの守れるはずもない約束や願いを、ぶつける。
守れるか、なんて問題じゃない。
守りたい。
その気持ちだけあればいいよ。
それだけで大丈夫だよ。
明日くらいは、乗り切ってみせるから。
僕たちは一度、目をしっかりと合わせると、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
無涯さんが僕の涙を拭き、僕も無涯さんの涙を拭く。
指についた涙を舐めると、塩っからい味が口中に広がる。

「何をしているんだ」

含み笑いの無涯さんの声。

「無涯さんの、味」

僕に向けてくれる笑顔。
好きだなぁ。
大好きだな。
離れたくないな。
拭っても拭っても零れ落ちてくる涙は、もう放っておくことにした。
この手、離したくないのにな。
行かないで。
わかってる。
どれだけ呟いても願っても祈っても、無駄なこと。
無涯さんが僕の涙をまた、拭った。

「塩っ辛い」

僕は、その手を掴んで今度は無涯さんの手を舐めた。
僕も無涯さんも、塩っ辛い味。
生きてる、味。
こんな戯れのような触れ合いも、明日のことを思えば、かけがえのない感触にかわる。
どうにか起き上がった僕たちは、身支度をしてしっかりと手を繋いで、先生の元へ向かった。
夏の日差しが、ジリジリと僕らを照り付けて、暑くて堪らない。
あぁ、空はこんなに青く澄んでいるのに。
あぁ、太陽はこんなに輝いているのに。
この空を、憎むことしかできないことが、堪らなく哀しい。

「葵、空が綺麗だな」
「えぇ」

僕たちは、空を見上げながら、ゆっくりゆっくり歩いた。
無涯さんの、大好きな空。
無涯さんの、大好きな青。

「空で、良かった」

何も答えられなかった代わりに、繋いだ手を強く強く握った。
零れそうな涙を堪えるように、強く強く、握ったんだ。
それから先は、無言で歩き続けた。
やっと病院が見えてきた頃、僕らは汗だくだった。
いくら暑くたって、繋いだ手を離すことなんて、できなかったから。
青すぎる空から眼を反らすことなんて、できなかったから。

「先生」

無涯さんが、ドアをノックして先生を呼ぶ。
ゆっくりとドアが開けば、先生は哀しそうに、笑った。

「ついに、明日だね」

そして、そう言うと僕らを交互に見る。

「先生、今まで本当に、お世話になりました」

無涯さんと同時に、僕も頭を下げる。

「いいんだよ」

頭を上げれば、先生は泣いていた。
僕ら二人も、泣いていた。

「こんな時代だ、君たちに言える言葉はあまりにも限られているけれど」
「いいんです。先生に、会いたかっただけなんですから」

僕がそう言うと、先生は僕らを順番に抱き締めてくれた。
先生も、気付いているようだった。
二度と会えなくなるのは、無涯さんだけじゃないってこと。
だけど皆、誰も口には出さなかった。
口に出せば、壊れてしまいそうだ。
口に出せば、揺らいでしまいそうだ。
二人でしか居られない僕らだから、二人で居なくなる。
僕はただ、そう思うだけ。
無涯さんはきっと、そうは思わないんだろうけど。

「お国のために、とは言えない。自分のために、戦いなさい」
「あぁ、いつか葵と先生に平和と幸せが訪れるように」

無涯さんの声は、とてもとても震えていたけれど、芯が一本通ったような、真っ直ぐな声だった。
無涯さんがもたらすそれを、受け取れないのは哀しいけれど、やっぱり僕は。
無涯さんを、選ぶ。
無涯さんの居る世界を選ぶんだ。

帰り道も、やっぱり無言だった。
それでも言葉に出来ない何かが、僕らの間に充満していた。
かなしみ、とも。
しあわせ、とも。
どちらとも言い切れない、息の詰まる何か。
怖くて、何だか足元がふわふわして、思わず無涯さんの手を握る。

「葵?」
「あ、いえ」

風が、通り過ぎる。
さらさらと揺れる髪の毛に、ふと空を見上げれば、雲に覆われた空。
あした。
あしたあしたあしたあした……。
心の中で反芻すれば、ぎゅっと胸が締め付けられる。
その日僕は、眠ることが出来なかった。
それは無涯さんも同じのようで。
僕らは何をするでもなく、同じ布団の中で、ただ抱き合っていた。
どうかどうか、この温もりが消えませんように。
そればっかりを願って。
ついに、明日。









カーテンの隙間から差し込む光が、夜の終わりを告げる。
あまりに早すぎる朝の訪れが、儚い。
僕がふらふらと布団から起き上がれば、無涯さんも続けて起き上がる。

「おはよう、ございます」
「あぁ」

こんな朝でも、空は眩しいくらいに青い。
いつもと同じ朝みたく、始まってしまうのが痛い。
出征に行く人たちを乗せた汽車が発車するのは、今日の午後1時。
それから無涯さんは、飛行機に乗り換えて何処か知らない所へ行ってしまう。
名前も知らない遠い町へ。
急いで朝ごはんの仕度をして、今日で無くなってしまった食料をぼんやりと見つめる。
ちょうどいい。
少しくらい食べなくたって、無涯さんより先に死ぬことはないだろう。
用意した朝ごはんを、噛み締めるように二人向き合って、食べる。

「美味いな」
「ありがとうございます」

敢えて、最後だとか終わりだとかは使わない。
だって僕ら、もうすぐまた会える。
きっと、会えるんだから。
カチ、カチ、カチ、と秒針の音がする。
時間は、過ぎてしまうものなのだと、嫌というほど思い知らされる。

「無涯さん」
「あぁ」

堪らなくなって、無涯さんを見つめる。
いつの間にか午後0時を回ってしまった時計。
それでも刻まれてゆく、時間。
哀しくて。
それでも、あの日準備した小さな荷物を持って、無涯さんは旅立ってしまうんだ。
どうしてだろう。
何でだろう。
僕ら、すぐに会えるはずなのに。
きっと、会えるはずなのに
どうしてこんなに涙が止まらないんだろう。

「葵、無理して見送りに来なくてもいいんだぞ?」
「いえ、送らせてください」

時計の針が、0時30分を回った頃、僕らは小さな家を出た。
僕らが駅に着いた頃には、もうまばらながらも無涯さんと一緒に旅立つ人たちや、その家族、町内の人たちなどが集まっていた。
みんなが日の丸の旗を持って、誇らしげに笑っていた。
一人泣いてしまいそうな僕は、明らかに浮いていた。

「こっちに寄っていろ」

そんな僕を、無涯さんは隠すようにして庇ってくれる。
こんな時ですら僕は、無涯さんに守ってもらっている。
こんなじゃ、ダメなのに。
僕は、零れそうな涙をグッっと押し込めて、皆と同じ位置に並んだ。

「葵?」
「無涯さん、いってらっしゃい」

精一杯の笑顔を向けて。
精一杯の言葉で、送り出す。

「あぁ」

そんな僕に、無涯さんはふわっと笑いかけた。
うん、やっぱり笑顔が好きだ。
涙を堪えているせいで震えてしまう拳を、無涯さんにバレないように、後ろ側に回した。

「では、行ってきます」

無涯さんは、一度僕を見て、そして皆を見渡すと、キリっとした表情を作り、そう言った。
強い強い瞳が、涙を堪えているのが、きっと僕にだけ、わかった。
そして一人ずつ、列車に乗り込んでゆく。
一番後に来た無涯さんは、一番後に乗り込む。
ついに無涯さんの番が来てしまう。
僕は、無意識のうちに無涯さんの服の裾を掴んでいた。

「葵……」

その手を、無涯さんが優しく外す。

「キサマは、来るんじゃないぞ」

無涯さんは、僕の手を握って、泣き出しそうな僕を諭すように、優しい声で言った。

「無涯さん……」

そして最後に、僕の耳元で小さく小さく呟いた。

「葵、愛している」

無涯さんが僕から離れると同時に、列車の扉が閉まる。
下がりなさい、と駅員に引きずられるように、僕は無涯さんから離れてゆく。
動き出す列車。
絡み合う視線。
だんだんと遠くなってゆく、僕ら。
僕はその列車を、いつまでもいつまでも見送っていた。
そして誰も居なくなったホームで、一人崩れ落ちるように、泣いたんだ。
今日から一人きり。
重く重くのしかかる現実に、僕は生涯きっと、勝てない。
一週間が、終わった。









それから先のことは、よく覚えていない。
僕は、まだ生きているのに死んだように毎日を過ごしていた。
眼を閉じれば無涯さんが浮かんでくるのが嫌で、眠ることすら苦痛だった。
そしてそんなある日、突然震えるような衝撃が胸の奥に突き刺さり、それとほぼ同時に大量の涙が、とどまることなく溢れ続ける。
それは、認めたくないのに確信してしまう事実。
それは、僕の心を一番大きく破壊する真実。
誰より愛しい人の、死。
僕はフラフラと立ち上がると、放心状態のまま、服を着替えた。
あの世に、持って行くものなんて何もない。
この世に、残しておきたいものなんて何もない。
そして僕は靴を履くと、急いで外へと駆け出した。
たどり着いたのは、眩しいほどに青い海。
さすがにこんな時に、泳いでいる人なんて誰も居ない。
僕はゆっくりと、水の中に足を進めてゆく。
無涯さんは空。
僕は海。
いつか交わって僕ら、きっと一つになれるだろう。
水平線の先で、きっと会えるんだろう。
最期の最期、無涯さんが何を見たのか、僕は知らない。
だけどただ一つ言えるのは、こんな下らない殺し合いを繰り返させる人たちには、到底見えない景色だったんだろうってこと。
僕は薄れゆく意識の中で、来るなと言ったのに、どうしてキサマはそうなんだ、と苦笑する無涯さんを、見た。
やっと会えた。
涙が零れないように上を向いたら、視界に広がるのは、眩しすぎる青い空。
上を向いているのに、その空に涙が零れる。
やっと、会えた。
これからは、ずっとずっと一緒。
もう、青く澄んだ空を見たって哀しくなんてならなかった。












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昔メルマガで流したものを少々手直しして載せました。
今まで書いてきた小説の中で、一番思い入れがあります。






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