幸せの言葉
貴方の、声になりたい。
「葵」
僕の名前を呼んでくれる低い声は、真っ直ぐ僕に届くから。
「無涯さん」
僕が放つこの声は、ちゃんと貴方に届くだろうか。
心の底から、振り絞ったこの声が。
目を伏せて無涯さんを思えば、胸が明るくなるようで痛い。
僕達は、付き合い始めて一ヶ月。
僕はまだ、一言も声を発していない。
一体、何をしているんだろう。
「葵、見てみろ。綺麗だろう?」
(こくん)
「お前にも、見せてやりたくてな」
無涯さんは、嬉しそうに、照れ臭そうに笑ってくれるけど、僕も心からの笑顔を返したけれど。
喋らない僕を、もう嫌になってるんじゃないかって。
無涯さんは、言い出せないだけなんじゃないかって。
考えるだけで、押し潰されて消えそうになる。
無涯さんの家から少し離れた丘。
暗い空に、街の明かりがよく映える。
僕は、無涯さんの横顔を見た。
「どうした?」
(ふるふる)
ただ、見ていたかっただけ。
ふいに、無涯さんの手が僕に触れたかと思えば、僕は手を引っ張られて、無涯さんの胸の中に居た。
僕は、無涯さんの肩に顎を乗せ、手を背中に回す。
この人が、好きだと思った。
凄く、凄く凄く物凄く…好きだと思った。
勿論、この気持ちは前から知ってる物なんだけど。
だって、誰かがこんなに優しく包んでくれるんだってこと。
「葵」
自分の名前を呼ぶ声が、こんなに愛しく感じるんだってこと。
今、初めて実感したんだ。
この気持ちを、無涯さんに伝えたい。
それでも、どうしても僕の想いは声にならなくて
どうして、こんなに強い気持ちを、溢れそうな思いを…言葉にできないのだろう。
僕は、出てきそうもない声の代わりに、無涯さんの背中に回した腕に、ぎゅうっと力を込めた。
無涯さんは、どうやらわかってくれたみたいで、僕の頭を優しく撫でてくれた。
「葵」
心から愛しく呼んでくれるその名前は、何だか自分の物じゃないようで。
たったの3文字が生きてるように、僕の身体の中を駆け巡る。
無涯さんにもこの気持ち、感じて欲しいのに。
いっそ、無涯さんの声になれたらいいのにと思う。
僕の出ない声の代わりに、僕が貴方の声になって、無涯さんの身体の中で駆け回るんだ。
そして、僕が貰った幸せを、沢山貴方に伝えたい。
身体を離し、僕達は見つめ合う。
無涯さんの顔が近付いたから、僕はゆっくりと目を閉じた。
触れるだけの、初めてのキスに、僕達は2人とも顔を赤く染めてうつ向いた。
「葵、そろそ…」
また、無涯さんの声が身体中で動き回って、どんどん増殖してって僕を幸せにする。
伝えたい言葉で、溢れそうな身体が震える。
「葵?どうかしたのか?」
言葉にしなくちゃ。
どうにかして、言葉にしなくちゃ。
「葵?」
声に出さなきゃ、破裂してしまいそうだ。
「……葵?」
そんなに名前…呼ばないで。
幸せすぎて、おかしくなっちゃうよ。
とうとう、僕の心は破裂してしまったみたいだ。
僕は、無意識の内に、無涯さんに抱きついていた。
「葵?」
無涯さんは驚いていたけれど、優しく抱き締め返してくれた。
今ならきっと、言える。
一度、無涯さんの肩に顔を押し付けて、ゆっくり無涯さんの顔を見た。
鋭い瞳。
赤茶の傷跡。
すっと通った鼻筋。
キッとしまった唇。
確かに大好きな無涯さんが、僕を見つめてくれている。
僕は、少しだけ口を開いた。
言葉が、段々喉から迫り上がってくる。
ぎゅっと無涯さんの服を掴む。
もう一度、名前を呼んで。
「葵」
その時、僕の心を察したように、無涯さんが僕の名前を呼んだ。
そして、その声に導かれるように。
「……無涯さんっ」
小さな小さな声が、出た。
ずっとずっと、呼びたかった名前だ。
ずっとずっと、声にしたかった名前だ。
無涯さんは、驚いたのか僕を見たまま固まっている。
良かった、ちゃんと聞こえてる。
安心して溜め息をついたら、無涯さんの腕にぐっと力がこもり、僕達の身体は更に密着した。
無涯さんの手は、震えていた。
僕の手も、同じだった。
「もう一度、呼んでくれないか?」
声も、震えてる。
「…無涯さん」
僕の声は、もっと震えた。
どうかどうか。
この声が、無涯さんの身体の中走り回って、僕の幸せ伝えてくれてますように。
ほんの少しでもいい、伝わっていますように。
「名前を呼ばれるだけで、こんなに幸せになれるとは知らなかった」
無涯さんは、恥ずかしそうにそう言ってくれた。
涙が出た。
ちゃんと、伝わっていた。
ちゃんと、届いていた。
たった一言で。
たった、五文字で。
「これからも…時々でいい。名前を呼んでくれ」
(こくん)
そして僕達は、もう一度キスをした。
今度は、深い深いキス。
無涯さんの気持ちが、流れ込むようなキスだ。
甘い感覚がぐるぐる回って、頭がくらくらする。
このままこの感覚に溶けて、無涯さんと一つになりたい。
そして無涯さんに、幸せを伝えるんだ。
心の底から、必死に絞り出したこの声で。
貴方の名前を呼ぶから、無涯さんも呼び返して?
そして僕は、無涯さんの声で幸せに酔い痴れる。
「葵」
「…無涯さん」
声にこもる温度で、無涯さんも同じだって、わかった。
たった一言の幸せに、2人で酔い痴れようよ。
暗さを増した空の下。
星。
夜景。
こういうのを、ムードがあるとか言うのかもしれない。
でも、僕達には関係ない。
互いの唇から零れる一言で、簡単に酔えてしまうんだから。
ゆっくり草の上に僕を倒し、無涯さんは僕の指先に口付けた。
セーターをまくり上げ、ボタンをぷつぷつと外すと、僕の肌に舌を這わす。
身体が、ぴくんって動いて、中心から熱くなる。
無涯さんは、僕の了解を得なかった。
僕も、そんな物は要らなかった。
だって、今。
僕達の気持ちは全く同じだから。
ただただ一つに。
貴方と、混ざり合いたい。
言葉は必要なかった。
触れ合う肌の温度で全てがわかった。
冷たい空気。
熱い身体。
求め合う、僕ら。
僕の足を掴み、無涯さんはゆっくり入ってくる。
僕達は行為の間、一言も言葉を交さなかった。
無涯さんが大丈夫か?と言いたそうに僕を見れば、僕は黙って頷いた。
無涯さんの背中に腕を回し、僕らは何度も、好きだ、とか、愛してる、のかわりにキスをした。
このキスは、世界に溢れるどんなに素晴らしく、薄っぺらい愛の言葉よりも意味がある。
繋がる身体。
混ざる体液。
僕らは今、確かに一つだ。
「ひあっ…ぁあっ…ん」
与えられる快楽に、素直に応える。
ねぇ、無涯さん。
まるで、言葉のない会話みたいに。
「無…涯さんっ……ぁんっ…んっ…ぁああっ…」
「葵…」
最奥を突かれた衝撃と無涯さん、と呼んだ自分の声、そして低く、真っ直ぐ呼ばれた名前に、僕はイった。
無涯さんもその後、僕の中に精を放った。
「はぁっ…はっ…はぁっ…」
無涯さんは、服を着てもまだ、呼吸の荒い僕を抱き締める。
「すまなかったな…こんな所で」
僕は何度も、それこそ無涯さんが思わず苦笑してしまうくらい、首を横に振った。
場所なんか、関係ない。
きっと、無涯さんもわかってるはずだ。
僕達は、さっきここで通じ合って、分かち合って。
心を熱くした。
「立てるか?」
(こく)
目の前に差し出された手を取り、立ち上がる。
「家まで、送っていく」
(ペコ)
僕達は、手を繋いだまま歩く。
無涯さんは、腰が痛んでゆっくりしか歩けない僕に合わせ、少し前をゆっくり歩いてる。
無涯さんは今、どんな顔をしてるだろう。
暗くてよく見えない表情に、思いを馳せた。
しっかりと繋がれた手に、幸せを感じる。
暗い一本道を、長い長い時間をかけて、ゆっくりと歩く。
無涯さんの手から、伝わる幸せ。
僕の手から、伝える幸せ。
大分歩いて、あとは突き当たりを右に曲がれば僕の家だ。
きっと僕は、これから今日のことを何度も思い出すんだろう。
そして、その度に無涯さんを思ってきっと、心が温かくなる。
ねぇ無涯さん、僕らこれからもずっとずっと一緒に居られるかなぁ?
気が付いたら既に、自分の家の前だった。
「では、またな」
僕達は、少し照れ笑いなんかしながら、今日最後のキスをした。
「無涯さん」
今日初めて呼んだときよりも、特別に響くよ。
「葵」
そしてやっぱり無涯さんの声は、僕の身体中を駆け巡って幸せにする。
低く真っ直ぐなその声は、僕の憧れそのもの。
いつかもっと、僕の声で無涯さんを沢山幸せにしてあげられますように。
「無涯さん」
もう一度呼ぶと、無涯さんは心底幸せそうに笑った。
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シリアス→ハッピーエンドっていう西川の大好きなパターンの小説です。
大好きな割にはそんなに書いてないのですが
屑桐さんのさりげない優しさが好きです。
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